四万川のせせらぎが、夜の静けさに溶け込むころ。
僕はようやく、この宿がなぜ“忘れられない”と言われるのかを理解した。
群馬県の山あい、地図を少し拡大しないと見えてこない場所に、
四万温泉はひっそりと息づいている。
観光地特有の喧騒とは無縁で、聞こえてくるのは川の音と、風に揺れる木々の気配だけ。
そんな温泉街の一角に佇む「やまぐち館」は、派手な看板も、
目を引く最新設備も持たない。
けれど、不思議と旅人の記憶には深く残り、何度も名前を呼ばれる宿だ。
その理由は、事前に口コミを読み込んでいた僕にも、ある程度は分かっているつもりだった。
「女将が素晴らしい」「人に惚れてまた来た」
──そんな言葉が並ぶレビューは、正直少し出来すぎているようにも感じていた。
旅を仕事にしていると、“評判のいい宿”と“本当に心に残る宿”の間に、
わずかな、しかし決定的な差があることを知っているからだ。
だからこそ、今回の宿泊では、設備や料理の豪華さ以上に、
「なぜこの宿は支持され続けているのか」という視点で、
やまぐち館と向き合ってみようと思った。
結論から言えば、この宿の魅力は非常にシンプルだ。
人が、人として迎えられる場所であること。
それも、マニュアルや演出ではなく、長い年月の中で自然と培われてきた“姿勢”として。
チェックインの瞬間から、どこか空気がやわらぐ感覚があった。
過剰な距離の詰め方はしないのに、放っておかれることもない。
その絶妙な間合いは、
数えきれない旅人と向き合ってきた経験がなければ生まれないものだと思う。
これは一朝一夕で身につく接客ではない。
やまぐち館が老舗と呼ばれる理由は、創業年数だけではない。
時代が変わり、旅のスタイルが変わっても、「人を迎える本質」を手放さなかったこと。
その積み重ねが、女将の佇まいにも、言葉の選び方にも、自然と滲み出ている。
旅館の評価は、部屋や温泉、食事といった“点”で測られがちだ。
けれど、この宿に泊まって強く感じたのは、それらすべてを包み込む“線”の存在だった。
滞在中の一つひとつの出来事が、あとから振り返ると、一本の物語としてつながっている。
この記事では、観光案内や公式情報だけでは伝わらない、
実際に泊まって初めて見えてきた「やまぐち館という宿の輪郭」を、
旅を重ねてきた一人の書き手として、できる限り誠実に言葉にしていきたい。
静かな温泉地で、心を休める旅を探しているなら──
この先の体験談は、きっとあなたの判断材料になるはずだ。
女将との出会いが旅の始まり
チェックインの瞬間から、
やまぐち館での滞在は「ただ泊まる」という行為を静かに超えていく。
玄関先で迎えてくれた女将の笑顔には、いわゆる旅館的な作法や型を感じさせない、
不思議な安心感があった。
それは、久しぶりに実家へ帰ったとき、
こちらが何も言わなくても「おかえり」と迎え入れてくれる、あの空気に近い。

※この画像はイメージです。
形式張った挨拶や事務的な説明は最小限で、代わりに交わされるのは、
ごく自然な言葉だ。
「今日はどちらから?」「道中、お疲れではありませんでしたか?」
そんな何気ない問いかけに、こちらも思わず肩の力が抜けていく。
一人ひとりの目を見て、旅の背景や目的に耳を傾ける姿勢は、
長年この場所で多くの旅人と向き合ってきた人でなければ、
身につかないものだと感じた。
僕自身、国内外で数えきれないほどの宿に泊まってきたが、
「チェックインの時間が心に残る宿」は意外なほど少ない。
やまぐち館が印象に残るのは、最初の数分で“この宿は大丈夫だ”と、
理屈ではなく感覚で思わせてくれるからだ。
ひと息ついた頃、女将は四万温泉の歴史や、この土地ならではの過ごし方を、
押しつけがましくなく語ってくれた。
観光パンフレットに載っている情報ではなく、長年この地で暮らし、
宿を守ってきた人だからこそ語れる言葉ばかりだ。
「この温泉は、昔から“四万の病を癒す”と言われてきたんですよ」
そう穏やかに話す表情には、土地への誇りと、
訪れる人を預かる責任感が自然と滲んでいた。
四万温泉が国民保養温泉地として大切にされてきた理由や、
草津のような賑わいを目指さず、
静けさを守り続けてきた背景を聞いていると、この宿の在り方そのものが、
この温泉地の思想と重なって見えてくる。
女将の話は決して長くはない。
だが、その一つひとつの言葉が、これから始まる滞在の“読み方”を
そっと教えてくれる。
急がなくていいこと、何もしない時間にこそ意味があること。
この宿では、旅人もまた、自然体でいればいいのだと。
やまぐち館のもてなしは、派手さとは無縁だ。
しかし、チェックインというほんの短い時間の中で、
「この宿に泊まってよかった」と予感させてくれる力がある。
その感覚は、設備や価格では測れない、
老舗旅館が長い年月の中で培ってきた“信頼”そのものなのだと思う。
口コミ評価が高い理由は「女将」にあった
じゃらんやGoogleの口コミを見ていると、不思議なほど同じ言葉が並ぶ。
「女将さんが忘れられない」
「また会いに来たくなる宿」
正直、最初は半信半疑だった。
旅館の口コミって、料理や温泉、部屋の清潔感の話に寄りがちだ。
それなのに「女将」という“人”の名前が、ここまで繰り返されるのは珍しい。
僕はこれまで、温泉地の宿を何十軒も見てきた。
“また来たい”という感想が生まれる条件も、だいたい分かっている。
- 温泉が良い(泉質や湯使いに説得力がある)
- 食事が記憶に残る(地のもの、出し方、温度、間合い)
- 部屋が整っている(清掃、導線、寝具、音、匂い)
- スタッフが気持ちいい(距離感、所作、言葉の温度)
なのに、ここでは最後に「女将」が来るのではなく、最初に「女将」が来る。
それはつまり、宿の満足度を決める“核”が、
サービス設備より先に「人の体温」へ置かれているということだ。
チェックイン後まもなく、その理由を知ることになる。
玄関で出迎える笑顔が、まず違う。
いわゆる「丁寧」や「上品」だけでは説明できない。もっと生活に近い温度がある。
久しぶりに実家へ戻ってきたとき、こちらが少し照れながらも安心する、
あの距離感に似ていた。
そして印象的だったのは、声のかけ方だ。
形式的な定型文ではなく、“会話の入口”としての一言が、
ちゃんとこちらに向いている。
たとえば、旅館でよくあるのは、
- 「遠いところお疲れさまでした」
- 「ごゆっくりお過ごしください」
もちろんそれ自体は悪くない。むしろ必要だ。
でも、ここでの女将の言葉は、もう半歩だけ近い。
「今日はどちらから?道中は大丈夫でしたか」
「寒くなかった?温泉、すぐ入りたいですよね」
この“半歩”が、旅の疲れをほどく。
相手の状況を想像して、答えやすい質問を置く。
そして返ってきた言葉を、流さず受け止める。
ここがポイントで、接客の世界ではこの一連を「ヒアリング」と呼ぶことがある。
でも実際は、ヒアリングというより「旅の空気を整える作業」に近い。
宿の滞在体験は、温泉や食事が始まってから作られると思われがちだけど、実は違う。
“最初の5分”で、体験の印象の半分は決まる。
緊張が残ったまま部屋へ入れば、同じ部屋でも狭く感じる。
遠慮が残ったまま食事へ向かえば、同じ料理でも味が入ってこない。
反対に、最初の入口で心がほどければ、その宿は「自分の居場所」になる。
女将は、その入口の作り方を熟知している。
それも、マニュアルの上手さではない。
“人を見て、場を整える”経験値の厚みだ。
実際、彼女の所作には無駄がない。
歩幅、間合い、視線の置き方、声のトーン。
相手に圧をかけず、でも放っておかない。
近すぎず、冷たくもない。
これって簡単なようで、いちばん難しい。
なぜなら、丁寧さは練習で身につくけれど、“ちょうどよさ”は相手ごとに変わるからだ。
たとえば、ひとり旅の人は静けさを求めていることが多い。
家族連れは、安心と段取りを求めている。
記念日のカップルは、特別感を求めている。
同じ「ようこそ」でも、刺さる言葉は違う。
女将は、その違いを一瞬で掴む。
会話の内容だけではない。手荷物の量、歩くスピード、表情の固さ、連れとの距離感。
いくつもの情報から、「この人には今、何が必要か」を当てにいく。
だから、口コミに“同じ言葉”が並ぶのだと思った。
「女将さんが忘れられない」
「また会いに来たくなる宿」
それは結局、設備や立地ではなく、
人が人を覚えてくれる体験に心が動いているからだ。
さらにもうひとつ、女将の凄さは「この土地の案内人」であることだった。
単に周辺スポットを紹介するのではない。
四万温泉という場所の“物語”を、宿の滞在に自然に織り込んでくる。
「この温泉は昔から『四万の病を癒す』と言われているんですよ」
その言葉が、押しつけがましくないのに、妙に心に残る。
きっと、ただの知識ではなく、守ってきた誇りと責任感が言葉に滲んでいるからだろう。
旅先で、歴史や由来を聞く機会は多い。
けれど本当に響くのは、“その人がこの土地を愛している”と感じたときだ。
女将の語りには、それがある。
結果として、滞在全体の解像度が上がる。
温泉に浸かる時間が、ただの入浴ではなく「この土地の恵みを受け取る時間」に変わる。
夕食の一皿が、ただの料理ではなく「ここでしか成立しない味」に変わる。
だから僕は、口コミの多さに納得した。
この宿の評価の高さは、偶然じゃない。
温泉や料理の良さが土台にあるのは当然として、
その上に女将という“体験の編集者”がいる。
宿の魅力を、点ではなく線にする。
チェックインから、湯、食、眠り、そして朝の空気まで。
滞在の全部を、やさしく繋いでいく。
旅が終わったあと、「また来たい」と思う宿には、必ず理由がある。
ここは、その理由が“人”として立ち上がっている。
そしてその中心に、女将がいる。
半信半疑で訪れた僕が、帰り際にはこう思っていた。
次にこの宿へ来るとき、僕は温泉でも料理でもなく、
まず女将に会いに来るのかもしれない。
夜、語られる“女将の紙芝居”が旅を変える
夕食後、館内に集まった宿泊客の前に現れた女将。
始まったのは、やまぐち館に代々受け継がれてきた物語の紙芝居だった。
声は派手じゃない。
でも、不思議と誰も途中で席を立たない。
最初は、正直に言えば「館内イベントのひとつ」くらいに思っていた。
温泉地では、地元の歴史や名所を語る時間が用意されていることもある。
だから、どこかで“観光の延長”として受け止めていたんだと思う。
けれど、数分も経たないうちに気づく。
これは観光案内じゃない。
もっと静かで、もっと深い場所に届いてくる。

※この画像はイメージです。
女将の声は大きくない。
抑揚で盛り上げることもしない。
なのに、言葉が消えずに残る。
その理由はたぶん、語りの中心に「売りたいもの」ではなく、
守ってきたものが置かれているからだ。
語られるのは、この土地のこと。
四万温泉の歴史。
そして「宿を続ける」という覚悟。
それはパンフレットの解説みたいに整った情報ではなく、
誰かの人生を通して語られる、温度のある時間だった。
旅館という場所は、設備で評価されることが多い。
部屋が新しいか、露天風呂が広いか、食事が豪華か。
もちろんそれも大事だし、満足度の土台になる。
でも、旅の記憶に残るのは、だいたい“人”だ。
その宿で交わした言葉、受け取った気遣い、ふとした間合い。
やまぐち館は、その核心を最初から理解している。
紙芝居が進むにつれて、会場の空気が少しずつ変わっていく。
誰かがうなずき、誰かが笑って、そして静かになる。
「聞いている」というより、「受け取っている」表情が増えていく。
この集中を生むのは、話のうまさだけじゃない。
もっと大きいのは、語り手への信頼だ。
そしてその信頼は、今日一日の滞在の中で、すでに積み上がっている。
チェックインのときの、あの安心感。
廊下ですれ違ったときの、目線の温度。
食事のタイミングを乱さない、さりげない気遣い。
その積み重ねがあるから、夜の言葉が“届く形”になる。
そして、女将は静かに言う。
「この宿は、建物より“想い”で続いてきました」
この一言が、胸の奥に残った。
宿を続けるということは、建物を維持することだけじゃない。
人を迎え続けるということだ。
季節が巡り、時代が変わり、景気が揺れても、
「また来たい」と思う誰かのために灯りを消さないということだ。
しかも旅館は、“続けるだけ”では成り立たない。
守るべきものを守りながら、変えるべきところは変える。
その判断を、毎年、毎月、毎日積み重ねていく必要がある。
それは派手に語れる類の努力じゃない。
だからこそ、静かに語られる言葉に重みが宿る。
紙芝居を聞き終えたあと、宿の見え方が変わる。
廊下の木のきしみが、古さではなく“時間”に感じられる。
湯気の立つ湯船が、ただの温泉ではなく“守られてきた恵み”に感じられる。
食事の一皿が、豪華さよりも“土地の誇り”として立ち上がってくる。
旅の満足度は、スペック表では測れない。
写真映えだけでも決まらない。
最後に残るのは、「ここに来て良かった」という感情の輪郭だ。
やまぐち館の紙芝居は、その輪郭を太くする。
この宿がなぜ続いてきたのか。
なぜ人が何度も名前を呼ぶのか。
その答えを、説明ではなく体験として渡してくれる。
だから、夜が更けて部屋に戻ったあとも、言葉が消えない。
ただ泊まるのではなく、
「この宿が守ってきた時間の中に、自分も少し混ざった」
そんな感覚が静かに残る。
旅を変えるのは、景色の豪華さじゃない。
予定の多さでもない。
たったひとつの言葉が、滞在の意味を変えることがある。
女将の紙芝居は、その瞬間を、確かに作っていた。
四万川沿いの温泉は、静けさそのもの
やまぐち館の温泉は、いわゆる“映える”方向の派手さはない。
大理石がきらめくわけでも、照明でドラマチックに演出されているわけでもない。
けれど、ここには別の強さがある。
それは「静けさが、ちゃんと用意されている」という強さだ。
温泉の満足度って、意外と誤解されやすい。
広さや種類の多さ、設備の新しさだけで評価されがちだけど、
本当に体がゆるむ湯は、数字やスペックの外側にある。
たとえば、湯に浸かった瞬間に肩が落ちるか。
呼吸が深くなるか。
「もう少しだけ入っていたい」と自然に思えるか。
こういう感覚のほうが、温泉の本質に近い。
やまぐち館の露天風呂は、その感覚をまっすぐに取り戻させてくれる。
四万川の音が、すぐそばで鳴っている。
目を閉じると、湯と川の境目が曖昧になるような瞬間があって、
自分が“入浴している”というより、自然の中に溶け込んでいるように感じる。
そして、ここが重要なんだけど、
川の音は「うるさくない」。
むしろ逆で、頭の中の雑音を消していく。

※この画像はイメージです。
人は静かな場所に来ると、最初は逆に落ち着かないことがある。
普段、情報と音に囲まれて暮らしているから、
静けさを前にすると、思考が騒ぎ出す。
「あれもしなきゃ」「これどうしよう」って、勝手に脳が仕事を始める。
でも、湯に身を沈めているうちに、それが少しずつほどけていく。
呼吸がゆっくりになり、肩の力が抜け、視線が柔らかくなる。
四万川の音は、BGMじゃない。
思考を止めるための“自然のリズム”みたいなものだと思った。
やまぐち館の温泉が教えてくれるのは、「何もしない贅沢」だ。
旅先って、つい予定を詰めたくなる。
観光地を回って、食べ歩いて、写真を撮って、次の場所へ急ぐ。
もちろんそれも楽しい。
でも、疲れが癒えない旅も、だいたいそのパターンだ。
ここでは、その逆をすすめられる。
何かを足すんじゃなくて、引いていく。
やることを増やすんじゃなくて、減らしていく。
その結果、体の奥に残っていた疲れが、ようやく表に出てくる。
僕は温泉地を歩くたびに思う。
「癒やし」とは、元気を足すことじゃない。
余計な緊張を落とすことだ。
そして本当にいい湯は、こちらが頑張らなくても、それをやってくれる。
四万温泉が“療養の湯”と呼ばれる理由は、きっとそこにある。
派手な刺激で気分を上げるのではなく、
静けさの中で、自分の体の声が聞こえる状態へ戻してくれる。
湯に浸かっていると、昼間の思考がほどけていく。
仕事のこと、SNSのこと、やるべきことのリスト。
あれだけ頭を占領していたのに、川の音にまぎれて薄くなる。
ふと気づくと、「今ここ」にしかいない。
これが、温泉のいちばん贅沢な効能だと思う。
湯の温度や泉質を語る前に、まず“心の位置”が変わる。
やまぐち館の露天風呂は、そのスイッチがとても自然に入る。
そして湯から上がったあと、身体が軽いのはもちろんだけど、
それ以上に、頭の中のスペースが広くなっているのが分かる。
考えなきゃいけないことは消えない。
ただ、絡まっていた糸がほどけて、順番に並び直される感じがする。
ここでしか味わえないのは、温泉そのものだけじゃない。
四万川の音、山の気配、夜の冷え方、湯気の立ち方。
全部が揃って、はじめて成立する「静けさ」だ。
もし今、疲れが“体”より先に“頭”に溜まっている人がいるなら、
やまぐち館の湯は、きっと効く。
派手さがないからこそ、誤魔化しがきかない。
静かに、確実に、ほどいてくれる。
夕食は“豪華”ではなく、“記憶に残る会席”だった
やまぐち館の夕食は、地元の食材をふんだんに使った会席料理。
最初に言っておくと、ここは「派手さで驚かせる」タイプの食事ではない。
映える盛り付けで視線を奪うのではなく、ひと口ごとに納得させてくる、静かな強さがある。
旅館の食事って、当たり外れが出やすい。
品数は多いのに、味の芯がぼやけていたり、温度が惜しかったり、素材の良さを活かしきれていなかったり。
僕は温泉宿を巡るたびに「料理は雰囲気で美味しく感じているだけなのか?」と自分に問い直すことがある。
でも、やまぐち館は違った。
雰囲気だけでは片づかない、“料理の仕事”がちゃんとある。

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一品一品に、料理人の技と心意気が光る。
それは大げさな演出ではなく、温度・香り・食感の整え方に出ている。
出汁の立ち方、火入れの潔さ、衣の薄さ。
旅館料理にありがちな「なんとなく優しい味」で終わらない。
ちゃんと輪郭があるのに、角が立たない。
山菜の天ぷら|“苦味”がごちそうになる瞬間
特に印象に残ったのが、地元で採れた山菜の天ぷら。
これが、ただの天ぷらじゃない。
山菜は新鮮そのもの。
口に入れた瞬間に、山の香りがふっと立つ。
そして、ほんの少し遅れてやってくる苦味。
この苦味が、いやらしくない。むしろ「これが食べたかった」と思わせる。
山菜の天ぷらは、揚げ方で全てが決まる。
油が重いと香りが死ぬし、衣が厚いと食感が鈍る。
やまぐち館の天ぷらは、衣が軽く、香りが逃げない。
“山菜を主役にする揚げ方”ができている。
派手ではないけれど、食べた人だけが分かる。
「あ、料理人がちゃんと山を知ってるな」と。
上州牛の陶板焼き|脂の甘みが、静かに溶ける
もうひとつ、忘れられないのが上州牛の陶板焼き。
陶板焼きって、実は難しい。
火が入りすぎれば硬くなるし、逆に弱いと脂だけが残って重くなる。
でもこの上州牛は、火入れの加減が絶妙だった。
柔らかさが残りつつ、余計な水分は飛んでいる。
噛むというより、ほどける。
脂の甘みが口の中で広がって、しつこさがない。
上州牛の“旨さ”って、単に脂が多いことじゃない。
香りがよくて、後味が澄んでいること。
その持ち味を、ちゃんと引き出していた。
女将が漬けた季節の漬物|ご飯が進むのは、味の設計があるから
そして、地味に見えて一番「強い」と感じたのが、女将自ら漬けたという季節の漬物。
こういう“自家製”って、当たり前のようでいて、実は宿の姿勢が出る。
塩が立ちすぎていない。
酸味も尖っていない。
でも、口の中をきちんと切り替える力がある。
会席の途中で食べても邪魔をしないし、白ご飯に合わせれば主役になる。
つまり、漬物が「添え物」ではなく、食事の流れを整えるパーツとして機能している。
この設計ができている宿は、食事全体のレベルが高いことが多い。
ご飯が進む美味しさ、という言葉で片づけるのは簡単だけど、
その裏にあるのは「味の足し算・引き算」だ。
旅館の食事は、濃い味で感動させることもできる。
でも、やまぐち館はそうしない。
翌朝まで気持ちよく眠れる濃度に、ちゃんと収めている。
朝食も手抜きなし|“滋味”が身体を起こしてくれる
そして朝食。
ここで手を抜く宿も少なくない。
夜に力を入れて、朝は無難に…というパターンはよくある。
でも、やまぐち館は朝もちゃんとやってくる。
焼きたての鮭。
温泉卵。
具だくさんの味噌汁。
派手さはない。けれど、滋味深い。
特に味噌汁がいい。
ただ“あったかい”だけじゃなく、具の旨味がきちんと溶けている。
湯気を吸い込むだけで、胃が目を覚ます。
旅先の朝って、少しだけ身体が冷えていたり、胃腸が眠っていたりする。
その状態に、強引に栄養を詰め込まない。
静かに起こしてくれる朝食だ。
シンプルなのに満足できるのは、素材と仕事が丁寧だから。
一日のスタートを演出してくれる、という表現がしっくりくる。
料理が語るのは「この宿の誠実さ」
やまぐち館の食事は、豪華さで勝負していない。
代わりに、誠実さで勝負している。
地元の食材を使うこと。
季節を食べさせること。
温度や食感を整えること。
そして、食べたあとに体が軽いこと。
その全部が、「また来たい」という気持ちに繋がっていく。
温泉が良い宿は多い。
景色がいい宿も多い。
でも、食事で“宿の人格”が伝わってくる場所は、そう多くない。
やまぐち館は、料理でもそれをやっていた。
派手じゃない。
でも、深く残る。
だから、旅人の記憶に残り、何度も名前を呼ばれるのだと思う。
建物は古い? → 正解。でも、それでいい
やまぐち館は新築旅館ではない。
廊下のきしみ、年季の入った柱。
けれど、それを「欠点」と感じるかどうかで、この宿の評価は分かれる。
- 最新設備を求める人には向かない
- 人の温度や物語を求める人には合う
- 静かに心を休めたい旅にちょうどいい
アクセス・基本情報
- 所在地:群馬県吾妻郡中之条町四万
- 公共交通:JR中之条駅から路線バスで約40分
- 車:関越道 渋川伊香保ICから約1時間
- 日帰り入浴:可否・時間は事前確認推奨
※最新情報は必ず公式サイトをご確認ください。
やまぐち館は、こんな人にすすめたい
- 記念日や夫婦旅、親孝行旅行
- 騒がしい観光地に疲れた人
- 「また来たい」より「また会いたい宿」を探している人
- 四万温泉で人の記憶に残る宿を選びたい人
まとめ|この宿を思い出すのは、帰り道だった
チェックアウトして、四万温泉の坂道を下りながら。
ふと、女将の声が頭に浮かんだ。
旅の余韻って、宿を出た瞬間に終わるわけじゃない。
むしろ、宿を離れてからのほうが、じわじわ効いてくることがある。
車のエンジン音が戻ってきて、スマホの通知が日常を呼び戻し始めた頃に、
「さっきまでの時間は何だったんだろう」と、遅れて胸の奥が静かになる。
やまぐち館は、そのタイプの宿だった。
チェックアウトの時点では、まだ言葉にできない。
でも、坂道を下りながら、気づく。
自分の中で何かが“整って”いる。
温泉の泉質がどうこう、料理が豪華だったとか、もちろんそれも大事だ。
ただ、そういう要素は他の宿でも語れる。
けれど、やまぐち館は違った。
温泉でも、料理でもない。
この宿の最大の魅力は、人が紡いできた時間なのだと思う。
旅館って、建物や設備の価値だけで続くものじゃない。
どんなに立派な館でも、人の気配が薄ければ、ただの“箱”になってしまう。
逆に言えば、建物が華美でなくても、
人が丁寧に積み重ねた時間がある場所は、ちゃんと記憶に残る。
やまぐち館がまさにそれだ。
玄関先で迎えてくれた女将の笑顔。
会話の間合い。
夜の紙芝居で語られた覚悟。
食事の温度とタイミング。
四万川の音に溶ける露天風呂。
それらが全部、バラバラの感動ではなく、ひとつの“体験”として繋がっていた。
ここには、「満足させよう」という押しの強さがない。
もっと静かで、もっと誠実な姿勢がある。
だから、こちらも無理にテンションを上げなくていい。
ただ、身を置いていればいい。
派手さはない。
でも、そのぶん誤魔化しがきかない。
本当に大切なところだけが残っていく。
帰り道に思い出したのは、その“残ったもの”だった。
旅の目的は、人それぞれだ。
リフレッシュしたい人もいれば、
何かの節目を迎えて、心の整理をしたい人もいる。
仕事や暮らしで疲れて、ただ静かに呼吸を取り戻したい人もいる。
やまぐち館は、そういう「人生のある瞬間」に寄り添える宿だと思った。
派手な演出で盛り上げるのではなく、
静かに、でも確かに、背中を軽くしてくれる。
帰り道、女将の声がふっと浮かんだのは、たぶんそれが理由だ。
言葉にしようとしなくても、身体が覚えている。
「あの空気があった」と。
また会いに来たくなる宿、という口コミを最初は半信半疑で読んだ。
でも今なら分かる。
それはロマンチックな表現ではなく、かなり正確な感想だ。
温泉地の宿は数えきれないほどある。
けれど、「帰り道に思い出してしまう宿」は、そう多くない。
それが、四万温泉・やまぐち館だった。

